前回、よい学校と評価される名門校の条件は「よい先生、よい先輩がそろっていること」と書きました。といって、必ずしも名門校で教鞭(きょうべん)をとっている先生たちが、最初から優れた先生だったわはではありません。
例え、新人のころ”箸にも棒にもかからない”と、言われた先生だったとしても、優れた先生たちのなかで研鑚(けんさん)を積み重ねていくなかで、成長を遂げていくものです。これが伝統というものの尊さです。その意味では、児童・生徒と同様に先生にとっても、教育環境は非常に重要な意昧を持っている、といえます。
一方、公立の中学、高校の場合は、残念ながら、粒ぞろいというわけにはいきません。もちろん公立校にも、構熱と実力を兼ね備えた優れた先生はたくさんおられます。
公立学校の場合は、私学や塾、予備校のように、教師の能力をシビアに問うことは、任命権を持つ教育委員会がやっておりません。ですから結果的に、先生はサラリーマン化というよりも、お役人風になりがちです。
そうした環境の中で、子供たちに学ぶことの楽しさ、面白さを伝える自らの職務について、真剣に研鑚を重ねる努力を忘れてしまう傾向があるのです。その結果、やる気のある先生は、己の力を持て余してしまっているのが、今の公立学校の現実ではないでしょうか。
一般社会でも、競争のないぬるま湯に浸っているような組織は、徐々に体質が弱体化し、お役所仕事化し、最後は淘汰(とうた)されていくものです。また、そこで働く人も、少しずつ覇気を無くして、自ら腐敗して共倒れ状態になるものです。学校にも同じことが当てはまるのです。
私は、公立校で校内暴力をはじめとするさまざまな間題が噴出しているのも、根っこの部分では、こうした構造的な問題が介在しているのではないかと思っています。
昨年暮れに文部科学省は、都道府県と政令指定都市の教育委員会五十九のうち、十七教委が指導力不足の教育を判定する判定委員会を設けたことを公表しました。私も、公立校の復権をめざすためにも、すべての教委が設置・実行することを切に望む一人です。
ともあれ、いい学校を見つけるには、いい先生がそろっている学校を探すことに尽きます。そして、いい先輩、同級生に恵まれることです。